コラム158 水主と鹿子

コラム158 水主と鹿子
 昔、船乗りのことを水主と書き、「かこ」と読ませた。何故だろう。これは筆者の
若い頃の疑問の一つであった。 
 解説の前に、少し前置きを述べさせていただくことにしよう。

 昭和30年代頃の甲板部の職名は一等航海士、二等航海士、三等航海士、四等航海士、
見習航海士、甲板長、甲板庫手、大工、操舵手、甲板員、見習があったが、現在では航
海士は、せいぜい三等航海士までで、部員は甲板長、甲板手、甲板員の3種類のみが一
般的となっている。
 これが、江戸期に遡ると、船頭、知工(ちく)、表(おもて)、片表(かたおもて)、
親父(おやじ)、若衆(わかしゅう)、炊(かしき)の7つの階層があった。
 船主自身が乗船する場合は「直乗(じきのり、じかのり)船頭」といい、船主の一族、
親戚が船頭として乗船する場合は「準直乗」で、他人が船頭になる場合は「沖船頭」あ
るいは「雇船頭」ともいったようである。
 船頭は現在の船長より広範な権限を有し、商店の大番頭や会社の専務取締役相当の地位
であった。
「知工」は事務長または会計担当者相当である。「表」は一等航海士「片表」は航海士で
表の補佐役である。
「親父(仁)」は若衆を指揮する熟練者で現代の甲板長相当である。「隠居」という者が
乗船していた船もあったようで、これは親父の補佐役で、甲板庫手や大工相当者である。
「若衆」は甲板手(操舵手)ないし、甲板員相当の役割を担当した。「炊」は読んで字の
とおり、炊事を担当し、若衆の手伝い、雑用一切を行う見習い船員である。「炊」の上に
「炊上り」がいたこともあった。
 これら船員を総称して「水主」と書き、「かこ」と読ませた。
 船乗りを「水客(すいかく)」、「水工」、「水手」と書くこともあるが用法としては
稀だろう。
「水主」を「すいしゅ」や「みずぬし」とは読まず「かこ」と読ませる理由は何故だろう
といろいろ調べたが、諸橋大漢和辞典第六巻「水」の項では、水主を「かこ」と読ませて
いるものの、根源を明らかにしていない。
 さらに調べてみると日本書紀巻第十応神天皇十三年九月の項が手がかりであることが分
かった。原文はこうだ。

 一云 日向諸縣君牛 仕于朝庭 年既耆耈之不能仕 仍致仕退於本土 則貢上己女髪長
媛 始至播磨 時天皇幸淡路嶋 而遊獵之 於是 天皇西望之 數十麋鹿 浮海來之 便
入于播磨鹿子水門 天皇謂左右曰 其何麋鹿也 泛巨海多來 爰左右共視而奇 則遣使令
察 使者至見 皆人也 唯以著角鹿皮 爲衣服耳 間曰 誰人也 對曰 諸縣君牛 是年
耆之 雖致仕 不得忘朝 故以己女髪長媛而貢上矣 天皇悦之 即喚令從御船 是以 時
人號其著岸之處 曰鹿子水門也 凡水手曰鹿子 蓋始起于是時也

 訳文を示しておこう。
 一(ある)に云(い)はく、日向(ひむか)の諸県君牛(もろがたのきみうし)、朝庭
(みかど)に仕(つか)へて、年既(としすで)に耆おいて仕ふること能(あた)
はず。仍(よ)りて致仕(まかりさ)りて本土(もとつくに)に退(まか)る。
 則(すなは)ち己(おの)が女髪長媛(むすめかみながひめ)を貢上(たてまつ)る。
 始めて播磨(はりま)に至る。時に天皇(すめらみこと)、淡路嶋(あはぢしま)に幸
(いでま)して、遊猟(かり)したまふ。
 是(ここ)に、天皇、西(にしのかた)を望(みそなは)すに、数十(とをあまり)の
麋鹿(おほしか)、海に浮きて来(きた)れり。
 便(すなは)ち播磨の鹿子水門(かこのみなと)に入りぬ。天皇、左右(もとこひと)
に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「其(かれ)、何(いか)なる麋鹿(おほしか)ぞ。
 巨海(おほうみ)に泛(うか)びて多(さは)に来(きた)る」とのたまふ。爰(ここ)
に左右共(もとこひととも)に視て奇(あやし)びて、則(すなは)ち使(つかひ)を遣
(つかは)して察(み)しむ。
 使者(つかひ)至りて見るに、皆人(みなひと)なり。唯(ただ)角著(つのつ)ける
鹿(か)の皮を以(も)て、衣服(きもの)とせらくのみ。問(と)ひて曰(い)はく、
「誰人(たれ)ぞ」といふ。
 対(こた)へて曰(まう)さく、「諸県君牛(もろがたのきみうし)、是(これ)年耆
(としお)いて、至仕(まかりさ)ると雖も(いへど)も、朝(みかど)を忘るること得ず。
故(ゆゑ)に、己(おの)が女(むすめ)髪長媛を以て貢上(たてまつ)る」とまうす。
 天皇(すめらみこと)、悦(よろこ)びて、即(すなは)ち喚(め)して御船(みふね)
に従(つか)へまつらしむ。
 是(ここ)を以(も)て、時人(ときのひと)、其(か)の岸に着きし処(ところ)を
号(なづ)けて、鹿子水門(かこのみなと)と曰(い)ふ。
 凡(おほよ)そ水手(ふなこ)を鹿子(かこ)と曰ふこと、蓋(けだ)し始めて是(こ)
の時に起(おこ)れりといふ。

 これを大雑把に意訳すると、こうだ。
 「・・・天皇が淡路島に狩に出かけた時に、多くの鹿が「鹿子水門(かこのみなと))」
に入るのを見たので、人をやって調べてみると、日向(宮崎)の豪族の娘(髪長媛−かみな
がひめ)が都に仕えるために東上するための一行だった。
 彼らが角の付いた鹿皮の衣を着ていたので、鹿と見あやまったのだった・・・
 水手(ふなこ)を鹿子(かこ)というのは、このときからのことである。」

 ここに言う鹿子水門とは、古く『大日本地名辞書』は加古川市稲屋の福田寺の寺号が大
津山であり、稲屋の古称が大津千軒であることから、加古川左岸の稲屋付近であるとして
おり、福田寺付近の鹿子水門址は加古川市関係のホームページで見ることができる。
 しかし、天皇のご一行が淡路島で狩をされていた最中なら、加古川の人影など見えるは
ずがない。しかも、諸県君牛らから数百メートルまで接近しなければ定かに服装を判別するこ
とができないのであるから、ご一行は淡路から船で加古川に行かれたと解さなくてはつじ
つまが合わないだろう。
 この鹿子(かこ)という言い方が、後世、船乗りの総称に水主の字を当てるようになっ
ても、水主を「かこ」と読ませたのだ。
 諸橋大漢和巻十二の鹿の項では、鹿子は「ろくし」と読ませ、出典は論語であると記さ
れているが船乗りとの関係には触れられていない。

 次の写真(宇和島海上保安部のHPから同部の許諾を得て掲載)は愛媛県宇和島市で行
われる「八鹿踊り」で、鹿の頭部を被って踊る哀調ある知られた踊りだが、前出の『日本
書紀』応神天皇13年の項には関係がない。

 






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