コラム154 三机港余話

 瀬戸内海でのヨットの一人旅は楽しい。
 瀬戸内海西部、伊予灘佐田岬半島の三机港は港則法が適用される天然の良港である。
 春一番の定係港である松山沖の興居島北浦漁港から関門海峡方面や宇和海に向かう
とき、私はこの港を必ず経由する。
 三机港は興居島から航程35海里で、春一番U世号では半日の航海である。
 北浦漁港から興居島西端と釣島東岸間の水道を経由して釣島南端から三机港口の襖
鼻沖までは無風時なら自動操舵で真針路220度の直航路で航行する。
 濃霧期でもレーダーとGPS衛星航法装置の活用で不安のない航海ができる。
 港内には水深3メートル以上が確保できる岸壁があり、漁港ではないから漁民からや
やこしい「いちゃもん」をつけられることもなく横付係留ができる。近くに商店街が
あって、燃料、水の補給ができるし、地元特産のニッケの入った饅頭や、できたての
雑魚天(じゃこてん)を味会う楽しみが待っている。

 三机の地名は、古くは「御着江」といった。これは神武天皇(じんむてんのう)東
征の折、嵐に遭ってこの地に漂着した。それゆえ御着江(みつくえ)と称したという
が、これには異説があって、「宇佐八幡の分霊流れ来る。その順序はまず神伏鼻に着き
それより御所浜にさらに小振に着き、最後に須賀に上り給ふ。また『愛媛面影』には
昔沖より流れ寄せられ給いしを鎮座し奉れりと。依って当浦を御着江と称す。」ともいう。
 下に示す八幡神社は宇佐八幡宮の分社で天平5年(733年)聖武天皇の奈良時代
に創立されたといわれ、現在の御神殿は明治31年に新築されたものである。この神社
の正面には、大久保利通がここに寄港したとき詠んだ和歌を記した木柱が建っていた
が、今年春に出かけてみると、柱は取り外され神社背面の床下に放置されていたのに
は驚いた。
 大久保が立ち寄ったのは写真の「六艘堀」と呼ばれる船溜まりで、現在の地形は江
戸時代に書かれたと思われる古地図と殆ど変わりがない。
 古地図は三机の教育委員会蔵で2.7×2.6メートルのものである。 参勤交代
で往来した御座船などの船溜まりで、薩摩藩など九州諸藩の船もここに寄港していた
のだろう。
 地元民の話によると、ここの水深は干潮時には2メートルを切るようで、春一番で
は入ったことがない。現在は廃船が数隻放置されていて著しく景観が損なわれている
が、これを撤去して、小型の御座船を復原してここに浮かべ、船内で新鮮な魚でも食
べさせるようにしたら観光客を呼び寄せるのに一役かうことができるだろう。
 
 三机は宇和島藩の飛地で、参勤交代時、御座船は空船で速吸瀬戸佐田岬を回り三机
港に入り、宇和島から陸路三机に到着し待機していた藩主らを「六艘堀」で乗船させ
瀬戸内海を東航したのである。
 速吸瀬戸は潮流が激しく、冬季には猛烈な北西風が吹き波が高く、さや波が立つか
ら、藩主を乗せての危険な航海を避けたのだ。
 標高130メートルの遠見山は文字通り三机湾に来航する御座船の監視処であった。

 三机湾はハワイの真珠湾と地形や水深が良く似ているということで、旧海軍の極秘の
訓練基地に選ばれ昭和14年(1939年)頃から秘密兵器、特殊潜航艇の訓練を開始
した。
 三机湾沖には母艦「千代田」が漂泊し、潜航艇は厳重に布袋をかぶせ、その姿を知る
ことはできなかった。被訓練者の士官たちは岩宮旅館、下士官は松本旅館に宿泊したが、
両旅館ともに現在も営業を続けており岸壁の直ぐ目の前にある。
 三机湾に寒い濱風が吹き始めた昭和16年(1941年)11月中旬のころ10人の
被訓練者たちは、休暇で帰郷した。休暇が明け彼らが帰ってきた数日後、三机湾沖に黒
い船体を見せていた母艦「千代田」が突然姿を消し、再び帰らなかった。
 昭和16年12月8日、彼らは、甲標的甲型と呼ばれた特殊潜航艇に乗り組みハワイ
真珠湾を攻撃したのである。
 四ヵ月後の昭和17年3月6日、5隻の特殊潜航艇のうち、艇の故障で不幸にして捕
虜第一号となった酒巻和男少尉を除く、岩佐直治中佐ほか8人の特別攻撃隊員の戦死が
報じられた。このとき初めて三机の人達は、特殊潜航艇の訓練が三机で行われ、10人
が三机から壮途に就いたことを知ったのである。世にいう「大東亜戦争九軍神」である。
 戦後20年余を経た昭和41年(1966年)8月、「六艘堀」の南側に面する須賀
公園の一角に佐藤栄作元内閣総理大臣の筆になる「大東亜戦争九軍神慰霊碑」が世界恒
久平和の礎として建立されている。

 とろで、「御着江」がなぜ現在の「三机」になったかである。
 一説によると、宇和島藩五代藩主伊達村候侯(生没年1723−1794年)の時代
に三机沖合いに机三脚が波間に見えた。机は祭具であり、これ以降、御着江を三机に改
めて書くようになったと郷土史家は述べている。
 出来すぎた話のようであるが、真偽のほどはともかく伝説の類<たぐい>であるから、
そのまま納得することにしよう。

 伊予灘から佐田岬の速吸瀬戸(古語では速吸之門という。)を経て宇和海に向かうと
き、三机湾宇和海間に運河が欲しくなる。運河があれば、三机沖からいきなり宇和海に
入ることができ、八幡浜まで10海里ばかりであるから、佐田岬回りより30海里、私
の艇では10時間ばかりの短縮となる。
 三机湾奥から宇和海側の振浜までの陸路最短距離は僅か860メートルばかりだから、
現代の土木技術なら工事期間は数年、費用は数十億円程度で完成するのではなかろうか。

 宇和海の由良半島には運河があり、私はこの運河を何度か通過したことがある。
 由良半島は南北宇和郡の郡境にあり宇和海に13キロに亘って突き出しているため、
由良半島南側の諸漁港から宇和島方面に向かうとき由良岬を回ると非常に時間がかかる。
 その上由良岬付近は波が荒く、僅かな風でも小さい船は航行できず災厄を受けること
も多い。 昭和8年には旅客船「大和丸」が由良岬沖で沈没し、14人が亡くなっている。
 半島の中間部にある船越地区は鞍部と地峡になっているため、昔はここで舟を陸渡し
するのに、酒を1升か2升出して担いでもらったものだという。ここに昭和35年待望
の運河が掘られることになり、昭和41年総延長200メートル、幅25メートル、水
深5メートルの運河が完成した。掘削した現場は、北側は岩盤であるが南側は砂礫や石
であるため、水深7メートルの海底からの施工となり、難工事であったという。波が荒
いため防潮堤の基礎は20トンの石を使っている。掘削部は架橋で連絡しており、船越
運河という。

 同じような運河が三机湾にも欲しいが、ここに運河を掘ろうとする試みは古く慶長15
から17年(1610年〜1612年)に溯ることができる。当時の宇和島藩主、富田
信濃守信高が佐田岬半島に塩成(しおなし)堀切を作り、瀬戸内海と宇和海を繋ごう
として、宇和島10万石の浦里から人夫を集めて掘らせたが、土質は堅い岩盤で金突き、
モッコ式の幼稚な工法であったから工事は思うように進まず、2年余で中止となった。
これは難工事であっただけではなく、千姫とのことで物議をかもした坂崎出羽守正勝との訴
訟に破れた宇和島藩が改易となり、藩主が宇和島から奥州岩城に送られたことが工事中止
の決定的原因だったようである。
 現在、三机〜塩成間で当時の工事現場である「掘切り跡」を見ることができる。

 この運河掘削を再開し同時に海底トンネルを掘ったらどうだろう。三机港と八幡浜の
潮差を調べてみると、図のとおりで、クリーンな潮位差発電が可能だろう。運河によって
小型船は計り知れない恩恵を受けるであろうし、海底トンネルと発電装置は松山市が負
担し、発電した電力を四国電力に売る。そして松山市に海水を蒸留する施設を造り、慢
性的な松山市の水不足を解消するため工業用水に充てるのだ。

 目的地に上陸すると、付近を散策したり、公民館、教育委員会を訪れて港のいしぶみ
や文化財を調べるのも一人旅のヨットでの楽しみで、自動操舵で航行する手持ち無沙汰
な無風時の航海中には、一人でこんなことを考え自問自答して悦にいっている。

 備考
 「塩成掘切」については創風社出版(Fax089−953−3103)から「小説
塩成堀切」<木野内 孔著>が刊行されているので、一読されたらいい。





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