|
コラム150 桟橋もろとも海没しそうになった話 |
|
|
|
コラム150 桟橋もろとも海没しそうになった話
やれ打つな蠅が手をすり足をする。
これは小林一茶の句である。 蠅も一匹や二匹なら惻隠の情もわくだろうが、大群で
押し寄せたとなれば、話は別だ。海上保安大学校で教授をされていた金指正三博士の著書
日本海事慣習史に蠅の大群に襲われ、乗組員2人が落水して、一人が死亡した珍しい海難
が紹介されている。
文政11年冬10月のこと。備後灘の六島の平兵衛船は30石積の活魚運搬船で沖船頭
幾松と水夫大蔵の二人が乗り組んで、周防の国不加浦で鯛、鰈<かれい>を活積して10
月1日尼崎で売却した。翌2日出帆して、3日の昼過ぎ、播磨灘家島群島の加島で潮待ち
し、夕刻北東風になったので出帆した。そのとき、加島にいたおびただしい蠅が船中に飛
び移った。船頭幾松は、着物を両手で振って蠅を追い払おうとした。ところが、誤って海
に落ちかけたので、水夫の大蔵が走り寄って船頭をつかまえたが、足許がぐらついて、二
人とも海に転落してしまった。船は追い風をうけて、無人のまま走り去った。
二人は致し方なく、互いに声を掛け合い、着物を脱ぎ捨てて、風下にある黒島を目指して
泳いだ。そのうちに北東の風が次第に強まり、波も高くなった。夜になり、いつの間にか
二人は離れ離れになってしまった。水夫の大蔵は、ようやく黒島に泳ぎ着いたが、船頭は泳
ぎ着かなかった。黒島には人家はなく、濡れた着物を乾かす術もなく、寒さと飢え疲れとで終
夜艱難辛苦した。ようやく夜が明けたので、救いを求めて島中を歩き廻ったところ、坊勢
島の善助という者が、干鰯の番船をしているのを見つけ、助けを乞うた。善助は大蔵に着物
食物を与えた、手厚く介抱したので、死を免れたのであったが、船頭は島々を捜索したが見
つからなかった。
これは蠅がもとでの海難事故で、過失による溺死事故である。 |
|
|
|
今なら防水型携帯電話で118電話をすればいいし、ポーチ型救命具を腰にぶら下げてい
たなら救助されるまで楽に泳げるだろう。
帆船(ヨット)でも機走中なら、海中から遠隔でエンジンを停止できる無線機も市販されて
いる。その気で救命具関係を使用しておれば、むざむざ死ななくて済む結構な時代だが、とか
く、自分だけは事故などあるまいと、自信過剰が禍してとんでもない事故を招くようである。
しかし、不可抗力としかいいようのない突発的で防ぎようのないことも起こるのが海上だ。
3月31日午後のことであった。強風波浪注意報が愛媛県中予地方に発令されていたので、
私は、春一番U世号を興居島は由良の桟橋に入船で右舷係留した。
ここは南風に弱いところで、係留していた桟橋の反対側には有限会社小冨士汽船のカーフェ
リー「あいらんど」が着桟していたが、私の艇は大揺れで、ノルウエー製のボール型フエンダ
ー5個を使って夜半に波が治まるまで艇が桟橋に打ち付けられるのを防いだ。
22時半頃にはようやく風浪も治まったので、キャビンで就眠したが、2時間ばかりしてた
たき起こされた。「桟橋が沈みかけているから、すぐに離れよ!」との声に驚いて飛び起きた
ところ、桟橋の北東側上面に波が打ち上がっているではないか。起こしてくれたのは、地元で
海上タクシーを経営している人で、たまたま高浜から客を運んで由良桟橋に着いたとき、桟橋
の異常に気付き知らせてくれたので助かった。
すぐさま別の浮き桟橋に係留したが、桟橋は見る間に沈んでゆき、午前5時頃には全没して
しまったのである。まさか桟橋が沈むとは夢にも思わなかったのであるが、海上タクシーが稼
動していなかったなら、艇は桟橋もろとも海没していたかも知れなかった。
写真は海底に鎮座してようやく桟橋の照明が海上に現れているだけの惨状を写したものであ
る。 こんな椿事は滅多に体験できることではあるまい。 |
|
|
|
× この画面を閉じる
|