コラム143 新しい事実認定の幕開

 平成18年8月、門司地方海難審判庁は関門海峡西口六連島北方沖合いで発生した押
船列とパナマ籍貨物船の衝突の裁決を言渡した。
 主文の要旨はこうだ。
 本件衝突はK丸被押バージK丸が、動静監視不十分で、無難に航過する態勢のJ号に
対し、左転して新たな衝突の危険のある関係を生じさせたばかりか、衝突を避けるため
措置をとらなかったことによって発生したが、J号が、警告信号を行わず、衝突を避け
るための措置をとらなかったことも一因をなすものである。

 この主文の内容そのものは格別目新しいものではないが、貨物船側に装備されていた
VDRの記録によってその航跡が認定された点において珍しい裁決といえるだろう。
 おそらく、VDRの記録を詳細に検討した最初の事件として、わが国の海難審判史に
残るのではなかろうかと思っている。
 VDRとはVoyage Data Recorderの略称であり、航空機に搭載されているフライトレコー
ダやボイスレコーダと同様の働きをするもので、"船のブラックボックス"とも呼ばれる
ことがある。 船位や動静、船舶の制御に関わるデータや音声情報、レーダ画面情報な
どを記録装置に蓄積し、航跡や船橋内の会話などを再現することができる装置である。
 VDRは、2002年7月1日以降に建造された国際航海に従事する3,000総トン数以上の貨物
船(Ro/Ro旅客船、旅客船は2002年7月1日以前に建造された船舶にも適用)への装備が
SOLAS条約によって義務化されてる。
 この装置ではレーダー画像も記録されるから、自船のみならず相手船の航跡を知るこ
とができ、この記録を解析することによって、疑いのない両船の運航模様を明らかにす
ることができるのである。

 本件で、理事官は衝突時刻として05時02分12秒(時刻は24時間制)と認めて
海難審判開始の申立てを行い、理事官意見(論告)も同旨であったが裁決はこれを認め
なかった。
 押船列側の船員法第19条報告(海難報告書)記載の衝突時刻は05時03分頃と記
載されており、船長及び昇橋していた見張り役の機関長は05時03分ころ衝突、当直
の一等航海士は05時02分ころと述べている。
 相手貨物船の事実の顛末書では05時03と記載され、船長及び当直一等航海士並び
に在橋中の機関長も05時03分ごろと述べているが、機関長が理事官の求めに応じて
、VDRの音声記録(ヒリッピンの公用語の一つであるタガログ語)を通訳を介して説
明したところによれば、05時02分14秒に操舵手が「衝突した」といっているとい
うことから、これを採り、その2秒前の05時02分12秒を衝突時刻と認定したもの
のようである。
 しかし、裁決はこれを排斥し、衝突時刻は05時01分38秒と認定した。
 理由はこうだ。
 @VDRの時刻、緯度、軽度、船首方向及び速力各データを再生した結果、定針時刻
以降9.8ないし10.0ノットのほぼ一定した祖で航行していたJ号が、05時01
分38秒以降急激に減速を始め12秒後には3.2ノットとなっておりこと。
 AVDRの音声データ中、05時01分38秒から警報音が記録されていること。
 B船長の当廷における、「VDRに記録されている05時01分38秒からの警報音
は、テレグラフの音ではない。色々な警報音が同時に鳴っている。」旨の供述
 以上三つの証拠から理事官認定とは34秒異なる05時01分38秒を衝突時刻と認
めたのである。
 VDRの記録はこうだ。
 同日05時01分34秒から同時02分15秒までの進路針路、速力、回頭方向を示
すとつぎのとおりである。(途中省略している。)時刻は時分秒各2桁、Sは右回頭、
Pは左回頭
時刻  進路  速力 針路 回頭   備考 
050134 130.8  9.9 141.1 S (注)7秒間速力一定
  35 130.6  9.8 141.9 S
  36 130.4  9.8 142.9 S
  37 130.1  9.8 145.0 S
050138 129.1  9.4 145.9 S この時刻から急速に大きな減速が始まっている。
                裁決が認めた衝突時刻  
  39 127.9  8.6 145.3  S  貨物船関長調書ではテレグラフ音がするという。
  40 127.0   7.8 146.5 S 1秒で0.8ノット減速
  41 126.4  6.9 146.6 S 1秒で0.9ノット減速
  42 126.1  6.1 145.5 S 1秒で0.8ノット減速
  43 125.4  5.5 146.7 S
  44 124.2  5.0 147.0 S
  45 122.8  4.6 147.5 S 1秒で0.4ノット減速

050200 114.0  2.8 156.5 S
  01 114.1  2.7 157.1 S
  02 113.6  2.6 157.8 S
  03 113.4  2.6 158.5 S
  04 113.4  2.6 159.3 S
  05 113.8  2.6 160.1 S
  06 114.7  2.6 160.9 S (注)10秒間で0.2ノット減少
  07 115.1  2.7 161.5 S
  08 115.2  2.7 162.1 S
  09 115.2  2.6 162.7 S
  10 115.4  2.5 163.4 S
  11 116.0  2.4 164.2 S 
  12 116.8  2.5 165.0 S 理事官認定の衝突時刻
  13 117.1  2.6 115.8 S
  14 116.9  2.6 166.5 S 操舵手はタガログ語で「衝突したと述べている。」
  15 116.6  2.6 167.3 S 衝突後3秒経過で速力はむしろ増加
                 (0.1ノット)している。
 このように裁決はVDR記録の速力変化から衝突時刻を断定したのである。
 裁決は、この衝突時刻における緯度経度をGPSアンテナ位置とし当時の船首方向か
らアンテナと第一着力点である貨物船の船首間との距離を補正して衝突地点を認定した。
 押船列側の運航模様についてはレーダー情報をVDRに記録していなかったから、従
来とおりの手法で衝突に至る押船側の航跡を認めたが、不合理的な認定ではない。

 ただ、詳細は省略するが、VDR記録はフアイル形式であり、本件のばあいはアクセ
スフアイルであるから、時間は掛かるものの改竄<かいざん>することができる。
 筆者も記録の一部を改竄してみたが整合性を考慮して改竄すれば見破ることは難しい。
従ってこの記録を真正なものとして証拠で採用するばあいには、VDR記録装置からデ
ータを誰がダウンロードしたかを確かめることが肝要であろう。理事官や海上保安官が
直接収集した記録ではなく、いったん船社の手に渡った記録を後日証拠とする場合には
注意が必要であるということである。
 音声記録はWavフアイル形式であるから、これまた消すことも内容の改竄も容易で
ある。また、音声は英語や乗組員の母国語で記録されるから、英語以外の言葉は審理の
過程で通訳によって日本語に翻訳されるべきではなかろうか。
 航跡の記録は緯経度で示されているから、記録されている各緯経度間を精密に直角平
面座標に変換して航跡を描くには一工夫いる。一つの方法として、衝突地点付近の緯度
からその地における緯度及び経度1分ないし1秒の実長(メートル)を計算しておき、
それに基づいて作図すれば必要十分な精度で航跡を描くことができるだろう。日本測地
系2000によるこのような実長さの計算は「コラム104航程線航法の厳密な解」で
示している。
 今後、海難審判関係者にはVDRやAISに関する知識が必須のものとして求められ
るだろう。

 このように本件は、押船側の航跡をVDRのレーダー情報から再現することができな
かったものの、ほぼ争う余地のない形で事実が認定され、高く評価される裁決であると
思っている。
 同種の記録を再現することによって、全ての関係者は運航模様をそのとおりと容認す
ることができ、後は過失論で争うだけだ。
 本件裁決は新しい事実認定の幕開けである。


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