コラム142 小型船の錨

 錨(びょう、いかり)を昔、「木猫」と書いた時代があった。これは木と石が組み合
わさってできており、猫の爪のように海底を引っかくということから生まれた言葉なの
であろう。しかし、錨が外力と呼ばれる、風波や潮流力に抗して船を係止させる力を生
じさせるためには、底質<ていしつ>が岩盤とか、非常に堅い場合は別として、爪だけ
が海底に引っかかったのでは駄目である。錨の一部や全体が海底に潜り込んで初めて有
効な船を支える力が生じるのである。 これを把駐力<はちゅうりょく>という。
 だから錨地を選択するばあいは、錨が海底に潜り込みそうな場所を探すのであるが、
この便のため海図には底質が記号で示されているのであり、泥や砂ところが好錨地とさ
れるのである。錨はある程度の重さが必要ではあるが小型で軽くて、錨全体が海底に潜
り込みやすく、且つ潜り込んだ錨を更に引っ張ったとしても錨の姿勢が安定しているも
のが理想的な錨である。
 特に小さくて軽量というのは小型船の錨の必要条件なのであるが、全ての底質に有効
な錨は望むべくもないから古来様々な形式の錨が数多く考案されてきた。
 小型船の錨としては、CQR、ダンホース<Danforth>、ブルース<Bruce>フオール
ディグアンカー<Holding Anchor>、唐人錨<とうじん>などが多用されている代表的な
錨だろう。
 CQRはケンブリッジ大学教授のGeoffrey Taylor卿が第二次大戦の少し前に考案したも
ので安全な<Secure>錨ということから、CQRの略語を与えたものであるというが、
アメリカでは、これをThe plow<鋤(すき)型 >と呼ぶ。クルーザーにはこれを装備し
ているものが多く、筆者の乗艇春一番U世号では船首に2個のCQR、船尾に自作の
錨と、唐人錨の合計4個を備え付けている。
 ダンフォースも第二次大戦前にアメリカ人のR.S.Danforthが考案したもので、軽量錨の
代表的なもので、この錨は小型ヨットや遊漁船で多用されているが、総トン数2000ト
ン級のアメリカの軍用上陸用船艇<LST,LCT>でも用いられた。ブルースは北海の
オイルリグ用に開発されたもので定置用錨として定評がある。
 故野本謙作先生は「スピン・ナ・ヤーン(1998年初版、舵社版)」で、錨の用法につ
いて薀蓄を傾けた様々な解説をされているが、この中にブルースの話が出てくる。
 「・・・透き通った水でよく見えたが、固く締まった砂まじりの海底にブルースがゴロッ
と横に転がっているが食い込んだ形跡がない。船に戻って錨綱を引くと一応の手応えはあ
るが、いつまでも動く。もう一度のぞきに行くと、横に転がったまま海底を引きずられた
跡が見えた。・・・<中略>・・・しばらくしてやってきた鈴木邦裕さんにこの話しをし
たら、ブルースは爪の下側に左右一対の小さな鰭<ひれ>を付けると食い込みますよと教
えられた。横に転がったときに海底に当たる辺りに、引く方向に対して45°の向きに付
けると、これが引っかかりになって、その側から爪が食い込んで行くそうだ。」と書かれ
ている。しかし説得力のある先生の文章でも、一読しただけでは分かり難かろう。
「百聞は一見に如かず。」である。 現物を写真で示そう。
 この錨の原型は昭和50年代の終わりに弓削商船高専の機関工場と把駐力実験装置の間
を往来して試行錯誤の末に造り上げた自前のものである。自重は片手で運搬できるように
7キロ程度であるが、神戸商船大学の本田先生にお願いして大学の把駐力実験装置でテス
トしたことがある。
 結果は、自重の60倍の把駐力を得た。フリュークとシャンクの角度を巧く工夫すれば、
泥の底質では同程度の把駐力を得ることができるだろう。是非自作されたらいい。春一番
U世号ではもっぱらこれを使っている。欠点は引っ張ると海底に潜り過ぎることだが、投錨
前には必ずアンカーブイを取り付ける。手やウインチで揚らなければアンカーブイを引き
上げる。それでもダメなら、アンカーラインをできるだけ巻き込んでビットに固定し、エン
ジンを使って揚錨する。
 日本小型船舶検査機構(JCI)は、国に代わって小型船舶の検査事務等を行う機関とし
て、昭和49年に運輸大臣の認可法人(昭和62年に経営の自立化及び活性化を図るため
に民間法人化となる。)として設立され、現在は、全国34箇所の支部において検査事務
等を行っているが、小型船舶関連の調査研究も行っており、小型船の安全運航に資する
資料を提供してくれており大変有り難い。
 調査研究の一つに「新型アンカーの性能」があり、JCIから許諾を得たので、その一部を
紹介することにしよう。
 表1は供試体アンカーの性能のまとめで、把駐力係数の欄(左側)が錨を水平に牽引した
時の係数である。ダンホース、ブルース、CQRの順に把駐力が大きいが、ダンホースとCQR
は反転し再突入(潜り込んだ錨がひっくり返り、海底面に出てから再度もぐり始めること。)する
ことがあるようだ。この点、ブルースは安定しているが前述のように固い底質での挙動が問題
である。A,B、Cの各図は把駐力特性パターンであるが、牽引しても「A」のような安定した
把駐力曲線を描くのが理想的な錨である。
 唐人錨(日本型)はスコープ(錨索と海底のなす角度)に関係なく。最大把駐力に達した後、
その力で安定的に引きずられるようで、この錨が漁船に多用されているのは「むベなるかな」
といえるだろう。
 いずれにしても万能の錨は存在しないのであるから、状況に応じて錨を使い分けるべきで、
このために異なる形状や重さの錨を複数装備するのが望ましい。
 事情の許す限り、泥、砂などの錨かきのいい錨地を選ぶべきだ。コラム132「捨錨」で風圧
力、潮流力、波力の計算式を示しているから、自船の風圧面積、水線下面積がら船に作用
する外力を計算し、使用する錨の推定把駐力と比較して、外力がどのくらいまでなら走錨しな
いかの目安をつけておけば、なんとなく安心できるだろう。
 唐人錨は投げ込んでいい。しかし、ダンホースは投げ込むと、海中であらぬ方向に飛んで行
くことがあるし、錨索が錨に絡んで効かなくなることもあるから、この錨は2階から篭に入れた生
卵を地上に降ろす要領で投錨するなどの、様々な錨に応じた投錨方法も知る必要がある。
 錨の文字は「金」ブラス「猫」の文字の首部を取り去って合成された名詞であるが、猫のよう
に爪を海底に引っ掛けるだけでなく、錨全体またはその一部が海底に潜りこまなければ有効では
ないのである。
 風で走るだけがヨットではなかろう。 錨一つにしても用法や、錨種類、重さ、錨索の径と長さ
、どの程度の径や長さのチr−ンを組み合わせたらいいかなどを調べたり、<Sentinel>と呼ばれ
る錘を錨索に取り付けるなどして、実船で試みるのも限りない海での楽しみの一つではなかろうか
と思っている。


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