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コラム140 無言の再見<三度沈没した潜水艦> |
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伊号第33潜水艦の番号は不吉な数字3の重なった艦である。内航許可船3685隻
(平成16年(2004年))の内、33の番号の付いた船は僅か6隻である。
伊号33潜は昭和17年(1942年)神戸三菱造船所で完成した巡潜乙型(伊号1
5型)である。全長108.7メートル最大幅9.3メートル、基準排水量3654ト
ン、水上速力23.6ノット、水中速力8ノット安全潜航深度100メートル、水上航
続距離は16ノットで14,000海里、航空機1機を搭載する新鋭潜水艦であった。
同艦は竣工後直ちに呉鎮守府籍となり第六艦隊第一潜水隊第十五潜水隊司令潜水艦と
してガタルカナル作戦にも参加後、トラックに入港したが途中リーフに衝突したためト
ラック環礁内で特設工作船浦上丸に横付け修理中のところ、係留索が切断して艦尾ハッ
チから浸水して船尾トリム30度の仰角の状態で深さ36メートルの海底に沈没し航海
長以下33人が殉職した。 これが第一回の沈没事故である。
同艦は来援した横須賀海軍工廠の救難隊が浮上作業を行ったのであるが、排水作業で
艦の前部が水面に出たころ艦橋のハッチ蓋が吹き飛び再び浸水し再度沈没したのである。
その後空気排水によってようやく浮上に成功し呉海軍工廠に曳航され昭和19年5月
修理工事が完了した。同艦は和田睦雄少佐が艦長として他103人と乗り組み伊予灘で
訓練を始めた。
翌6月1日第六艦隊第十一潜水隊に編入され、同月13日午前7時、愛媛県郡中港沖
合いを抜錨し訓練海域の伊予灘由利島、青島間に向かったのである。
由利島(松山市)は昔、由利千軒といって多くの人が住んでいたといわれた島だが現
在は無人島である。青島(大洲市)は江戸時代に播州赤穂から漁民が移住した島で、毎
年、義士祭りを行うことで有名だが、現在は老人が50人ばかり住んでいるに過ぎない。 |
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伊号33潜は両島の中間付近に達して潜航訓練を開始した。08時40分ころ和田艦
長は急速潜航訓練を行うことを乗組員に告げ、水雷長平沢大尉が哨戒長となって指揮した。
艦橋からの同大尉の「両舷停止、潜航急げ」の号令で艦橋の哨戒員たちはラッタルを
伝わって滑り降りてゆく。最も機敏さが求められる艦内突入訓練である。各ハッチの受
け持ち部員は閉鎖にかかり直ちに排水筒、吸気筒の全部が閉まった青ランプが点灯した
ことを確認した和田艦長は「ベント(空気抜き)開け」の号令を発した。
艦が20から30メートル潜航したころ、機関室から「吸気筒より浸水!」の悲痛な
声が伝わった。およそ3,4人がかりで閉じたが浸水は止まなかった。
このとき司令室では一時機関室隔壁を閉鎖して浸水を防ぎ浮上しようかという措置も
とりかけたが機関室には乗組員の半数が居る。これを見殺しにすることができないとし
たことが最悪の事態となったようである。浮上に必要な空気はなくなり、艦は艦首を上
方にして45度くらいの仰角で沈下し、深度計は60メートルを指して艦は水平となっ
た。着底したのである。しばらく後、艦はゆらぎ、メインタンクのブローが効いたのか
再び艦首が浮き上がったアップの状態となったが深度計は12メートルを指して止まっ
てしまった。司令塔下部の発令所にも浸水し、司令塔内の気圧は目玉が飛出すほどに上
昇した。 電源を失い艦内照明は消え、艦内の連絡も杜絶えてしまったのである。
和田艦長は指令搭員だけでも助けようと「ここにいても死ぬだけだ。ハッチを開けて
脱出すれば万一助かるかもしれぬ。死ぬつもりで外にでよ。もし一人でも助かったなら、
遭難の状況と原因を報告してくれ」と脱出の順番を告げた。第一番は信号長の横井徳義
兵曹で脱出装置から艦長を除く司令室の全員が次々に脱出した。 浮き上がった者たち
は泳ぎ始めた。しかしそのうち一人、二人と波間に消え、3,4時間後、由利島に向か
って泳いでいた小西愛明少尉、岡田健市一等兵曹、鬼頭二等兵曹の三人だけが付近を通
りかかった西条の漁船に救助された。
当日の釣島水道の潮流は11時36分まで南西に流れていたから3人は逆潮流に抗し
て泳いでいたことになり、遭難現場からほとんど離れていない場所で救助されたもので
はなかろうか。負傷していた鬼頭二等兵曹は松山航空隊で手当てを受けたものの間もな
く死亡したのである。
「もし、一人でも助かったら」という艦長の危惧のとおりとなった。
二人の生存者の報告から沈没地点が特定され調査が始まり、6月末には潜水母艦長鯨
も現場に赴いているが、意外なことに吸気筒頭部弁と弁座との間に長さ15センチ直径
5センチの円材が挟まっていたのである。おそらく呉工廠で修理中、工員が作業に使用
した木片を、かたずけるときに見落としたのではないかとの説がある。そうだとするな
ら、それまでの潜水でも浸水したはずである。一般商船でもパイプの中にウエスやタワ
シ、工具など入れたまま復旧して機関を焼いた話は珍しくない。伊号33潜のばあい、
どうしてこの急速潜航時にだけ浸水したかであるが、吸気筒頭部を覆っている金網と吸
気筒の隙間に木片があって、それまでは弁と弁座には挟まれなかったものが、このとき
偶然に挟まったのだと推論すれば説明は付く。
一般商船の事故もそうだが、人間の記憶は曖昧で事故原因はなかなか特定できないも
のである。伊号33潜のばあいでも、生き残った岡田一等兵曹が後にいうのに、このと
きは三回目の潜航中の事故で、荒天通風筒からの浸水だったといい。円材は木片で長さ
2メートルくらいだったと新聞記者に語っている。またこの吸気筒が左舷のものか右舷
なのか文献によって異なっている。
本艦は大東亜戦争中には引き上げられず、除籍された。
伊号33潜はトラックでの2度の沈没、伊予灘での沈没と、事故で3度沈んだ唯一の
日本潜水艦である。
戦後の昭和28年6月21日、本艦は呉市北星船舶工業鰍ノよって興居島御手洗海岸
(現、松山市泊町)沖合いで浮上した。引き上げ作業開始以来75日目のことである。
多くの遺骨と遺書が見つかったが、驚くべきことに浸水していなかった魚雷発射管室と
前部兵員室を開いたところ、昨日息をひきとったとみまがうような12の遺体が発見さ
れたのである。酸素欠乏と61メートルの海底の冷気が遺体を損なわさせなかったので
あろう。
顔の色はそのまま、金歯がのぞく唇は淡紅色、皮膚を押すとわれわれのように適度に
柔らかく適度に堅く、まるで生きているようで、「総員起こしの号令」でもかければ飛
び起きそうな感じであると愛媛新聞は報じている。丸坊主のはずの頭部は髪が5センチ
ほど伸び爪は1センチちかくの長さで突き出ていた。酸素が次第になくなる苦悶からで
あろう、全員裸体であった。
61メートルの海底で9年間変らぬ姿でいた乗組員と無言の対面を果たせた遺家族の
心情は如何ばかりであったろう。
平成15年(2003年)6月は伊号33潜事故60周忌である。護衛艦まつゆき他
海上自衛隊艦船が参加して礼砲を発し伊号第33潜水艦乗組員の御霊に対して再度の鎮
魂が挙行された。
由利島、青島を望める興居島御手洗海岸には本艦の慰霊碑が建立されており、今も献
花が絶えない。
伊号第参拾参潜水艦慰霊碑 碑文
昭和19年6月13日本艦は太平洋戦場に出撃の為め呉出港伊予灘で急速潜航運動中
不慮の災禍に會い由利島南方水深61米の海底に沈み百余の英霊は艦と共に9年の長い
間海底で悲しみの日を過ごされたが呉市北星船舶工業株式会會社の犠牲的努力と地元有
志の協力を得て此の地点沖で浮揚作業の功成り慰霊の祭典を営み多数遺家族の方々と無
言の対面が出来たことを記念し其の霊を慰める為め此処に記念の碑を貽す。
愛媛県知事 久松定武
(著者注、碑文の数字は算用数字に改めた。本稿は引揚げ当時の愛媛新聞、雑誌「丸」
平成13年6月号72から77Pを参照した。)
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