コラム126 春一番風信

 筆者の乗艇の名は「春一番U世号」である。この名は昭和38年(1963年)に進水した初代
「春一番」を受け継いだものである。初代、二代目とも設計者は故大阪大学名誉教授野本
謙作先生でご自身の船であった。U世号誕生時、初代は私が引き継いだ。野本先生が亡くなられて
U世も筆者が管理保管を続けている。「春一番」の由来はこうだ。
 野本先生は当初船の名をひそかに「カイミロア」と決めていたそうだ。これはポリネシア語
で「はるか遠くへ」という意味だそうで、ポリネシア伝統の双胴のカヌーを自作して1930年代
の終りにハワイから西回りでフランスまで航海したエリック・ド・ビッショプにあやかるつもりであ
ったという。初代を建造中、まだ正式に艇の名が決まらないある日、造船所宿舎での夢の中で
誰かが話しかけてきた。
 「あんたもいよいよ自分の船を作るのだそうだが、その船の名前は?」先生はためらいもなく
答えた。「春一番」そして驚いて目を醒ますと、いままでに考えたこともない名前だったという。
 気が付くと窓の外では、とりわけ豪快なその年の春一番がごうごうと唸り声をあげて吹き荒れ
ていた。先生は窓を少し開けたところ春一番特有の生暖かい風が頬を打った。そうだ、いい名
前だ、これにしようと決めたのだという。初代は船齢40年を機会に老朽化で廃船にした。
 初代は外洋帆走協会セール番号58であったが、この番号はU世号のものでもある。

 「春一番」とは気象庁の用語で「立春から春分までの間に、広い範囲(地方予報区くらい)
で初めて吹く暖かく(やや)強い南よりの風としているがこの言葉の発祥の地は長崎県壱岐
であるという。安政6年(1859年)2月13日春一番により地元の元居浦の漁師53人が
遭難した。
 昭和62年に郷ノ浦港入口の元居公園には帆をイメージした「春一番の塔」が建立された。
 自然を畏れる気持ちを伝えるためだという。旧暦2月13日に近い日曜日には春一番によ
って遭難した人たちの冥福を祈る行事が毎年行われている。
航行中、甲板で風を感じないから今日は穏やかですねという旅客がいる。これは真風
速と船上で感じる相対風速とを混同しているのであろう。穏やかはいいがヨットは風がなくて
は困る。こんなときには、海の守護神である双子座の銀星キャスターに風を頼みたい。しかし、
船歌ではないが「マストに唸る風の声、船端叩く波の音」が激しいのも困りものだ。

 気象庁風力階級表は風力を0から12までの階級で示し、風力12は「被害いよいよ甚大」
と定義され、地上10メ−トル相当の風速が32.7m/sec(64ノット)以上である。 同表で
はこれを超える階級は示されていないがBeaufort階級では、17階級まで示され、12以
上をハリケ−ンと称し、17階級では109〜118ノット(60.7メ−トル)である。
  この階級はイギリスの海軍少将Sir FRANCIS  BEAUFORT(1774−1857)によるもので
、もともとアッパ−トップスル及びロア−トップスルを有する帆船で、セ−ルを展開することの
できる風速と速力からできた階級である。
 風力0は「操縦能力が全くない。」、風力4では全帆を展開でき、5〜6ノットの速力がでる
ことからModerate breeze(和風⇒適風)と称し、風力7ではトップスル及びコ−スを展開す
ることができる。11ではスト−ムセ−ルのみを展開できる。12では、帆は一切展開できない
などと定義したことが始まりである。
 このように帆船と風力階級は密接な関係があるのだ。
 最大風速は10分間の平均風速のうちで一番大きなもの、瞬間最大風速は5秒間隔で計測され
る瞬間風速のうち最大値であることはヨット乗りには知られたことだが、風力12を越えたもの
で著名なものは平成17年9月アメリカニューオーリンズ州を襲ったハリケーン「カトリーナ」
の最大風速78m/sec(1分間の平均計測値)であるが、昭和34年(1959年)の伊勢湾台
風は75m/sec、昭和41年(1966年)9月5日に宮古島で吹いた風は85.3m/secで、
これが日本記録のようだ。1934年ニューハンプシャ−で103.2m/secの瞬間最大風速を
観測したのが世界記録であるというが、いずれも風力階級では示されていないすざましい風だ。
 
 波の状況を見て風力が分からなければならないし、海面と雲を見て風勢の予測ができなく
ては一人前のヨット乗りではなかろう。天気図も自分で書いてみるといい。観天望気はヨット乗
り必須の知識だ。霧や寒冷前線来襲の予知、積乱雲が接近したときのダウンバースト対策等々も
体得しなければなるまい。

 このコラムの表題「春一番風信」は空海が東寺から延暦寺の最澄に送った書簡の表題「風信帖
」を不遜<ふそん>を承知で拝借したもので、野本信子未亡人宛にU世号近状を伝える便りのタ
イトルにしているものだ。


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