コラム160 SOS談義

コラム160 SOS談義
 モールス信号というのは、アメリカの発明家サミエル・フインレイ・ブリーズ・モール
スが発案したもので、1840年6月に符号の特許を得ている。
 その後改良され、改良した符号をもとに1867年7月のウイーン会議で標準規格とし
て条約が結ばれた。その後1868年7月にウィーンで開催された国際電信連合で現在の
ものの原型が国際規格として承認されたのである。
 この信号は短、長符号の組み合わせであるから、我が国では「トンツー」ともいうが、こ
の符号は無線電信に限らず、探照灯などの灯火を点滅させての発光信号でも使用される。 

 今でも忘れないが、昭和34年夏、インド西岸のゴア(当時はポルトガルの植民地)で
鉄鉱石積荷のために長期沖待ちをしたことがある。乗組員はしばしば通船で上陸して無聊
を慰めたが、甲板庫手<Store Keeper>が腸チフスに罹った。
 彼は上陸して帰船の途中、町で買った胡瓜(きゅうり)を船の船縁で、海水で洗って食
べたことから罹患したようである。悪いことは重なるもので、高齢の船医は先港のペルシ
ャ湾で猛暑にやられて体調を崩し、ゴア入港直後に積荷を終えた日本船に乗せ帰国させた
から、船舶衛生管理者の資格を持つ私がその代行を務めなければならなかったのである。
 連日高熱を発し下痢が止まらない甲板庫手の症状から腸チフスの疑いを持った私は、船
長と相談して、病院で診断を受けさせることにした。陸船間の交通はサンパン(通船)で
あるが、定期便がなかったので深夜に通船の手配をしなければならなかった。
 病人がでて、症状は、かくかくであるから夜明け時に通船を手配してくれるよう発光信
号で港務所に依頼したのである。通信士は乗船していたが、探照灯の操作は私が担当した。  
 慣れない病名や症状を英語のモールス信号で送受信することができたのは、学校で1年
もかけてトンツーを習ったお陰だった。
 ちなみに、我が国ではカタカナのモールス符号があるし、中国語はどこの国とも構成が
異なり、漢字一文字に4桁の数字がコードとして割り当てられている。漢字を数字にエン
コード、また数字を漢字にデコードする為の「標準電碼本」(中国郵電部(現・情報産業
部))というコードブックが存在する。韓国ではハングルのモールスコードがある。

 この符号を用いた遭難信号がSOSで、海上衝突予防法第37条の定めにより同法施行
規則第22条(遭難信号)では、無線電信その他の信号方法によるモールス信号の
「・・・ - - − ・・・」(SOS)の信号を遭難信号としており、国際的なモールス符
号である。 
 我国の電波法の定義でも遭難通信(船舶又は航空機が重大かつ急迫の危険に陥った場合
に遭難信号を前置する方法その他総務省令で定める方法により行う無線通信をいう)に使
われる信号の一つとされている。

 さて、SOSの根源である。
 百科辞典などによると<Save Our Souls>(我々の命(魂)を救え)または<Save Our 
Ship>(我々の船を救え)あるいは<Suspend Other Service>(他の仕事は中止せよ)の略
とされているが、果たしてそうだろうか。
 語源に定説なしである。素人でも送信が容易で、また信号が妨害を受けたとしても認識
しやすい符号を選んだものだと解したのでいいかもしれないが、ここでは、あれこれいわ
れるSOSの意味に決着をつけることにしよう。
 1903年ベルリンでの国際無線電信会議の予備会議では<SSSDDD>にしてはどうかと
いうことであった。しかしイギリスのマルコニー会社が最初に使い始めた遭難信号が<CQD
>でこれは<Come Quick Danger >あるいはあるいは<Come Quick Distress>(早く来てく
れ遭難>の意と解されていたし、ドイツは<SOE>の符号を使用していたので話が纏まらな
かった。
 そして3年後の1906年、ロンドンの国際会議ではドイツが実施していた符号を採用
しようということになったが、最後の<E>は短点1個だから間違い易いし、空電がある
ときは妨害されて聞き取れないのでは困るということになり、最後の<E>が<S>に訂正
されて<SOS>を国際的な信号として使用することに決まったのだという。
 この<SOS>の意味について元川崎汽船船長の藤森俊夫氏は、その随筆集「海ととも
に」の中で次のような話をされている。
「私は練習生のときに、遠洋実習である南米航路を終わって、次の世界周航の途に就く前
に、専任教官に伴われて逓信省の無線局長を訪ねたことがあったが、その時の本省の無線
局長は初代の佐伯博士であり、あたかもロンドンで開かれた国際無線電信会議から帰って
こられたばかりのところで、さまざまと、会議の話をされた中に、「今度の会議で電信符
号にについてもいろいろと研究されたのですが、そのうちで遭難船から出す遭難呼び出し
は<SOS>ということになりました。
 <SOS>は<Stop Other Service>の頭字を採ったもので、遭難信号の行われるときには
他の無線局は自己の通信を停止することになっていますいから、丁度よい信号符号だとい
うことで全員一致の賛成を見ました。」というふしがあって、私の耳には今もなおその言
葉がのこっている。」というのである。
 筆者は藤森船長の述べるSOSの話に軍配を揚げたいと思う。

 <CQD>が初めて使われたのは1909年1月、バルト海で「フロリダ」と「リパプリッ
ク」の衝突においてで、この信号によって乗客1,500人が救われたという。
 <SOS>を初めて発信したのはタイタニック号であると書かれている書物が多いが、マル
コニー式電信機を積んだ船の中で、<SOS>を初めて使ったのはタイタニック号であったと
いうことであり、最初に<SOS>発信したのは1909年6月、アゾレス諸島沖で遭難した
「スラボニア号」である。イギリス、ホワイトスターライン会社が新造当時、世界第一の
巨大船として大西洋航路に使用したタイタニック、オリンピックの両姉妹船のうち、タイ
タニックは、その処女航海に氷山と衝突し悲惨な最期を遂げた。
 1912年4月10日、<Edward J.Smith>船長は指揮し23ノット(22ノットとも
いう。)の快速でイギリスのサザンプトンを発しニューヨーク向け航行の途、同月14日
23時30分に氷山と激突し、平時としては、いまだにその不幸な記録が破られていない
1,503人という驚くべき死者を出しタイタニックは衝突後一時間ばかりして最初の救
助信号を発信した。
 翌4月15日00時05分、最初にマルコニー無線会社が定めた遭難信号を打電した。
「CQD,CQD,タイタニックはは氷山と衝突して沈没しつつあり。急いで救援をこう。
・・・」
 そして最初の救助信号<CQD>が発信されて20分の後、タイタニックの無線士<Harold 
Brode>ハロルド・ブライドが、最近の国際会議で、救助信号が<SOS>に変わったことを無
線局長の<Jack Phillips>フイリップスに告げ、フイリップスは<CQD>を<SOS>に切り替
えて同日00時45分、マルコニー式電信機によるものとしては、最初の<SOS>が打電さ
れたのである。電文はこうだ。
 CQDでの電文 <CQD  CQD  DE MGY  41.46N  50.14W  SINKING WANTS 
IMMEDIATE ASSISTANCE>
(遭難した。こちらタイタニック。北緯41.46西経50.14 沈みつつある。至急救助を頼む。)
 SOSでの電文<SOS  SOS  SOS  DE  MGY  CQD  REQUIRE ASSISTANCE POSITION  41.46N
 50.14W  STRUCK ICEBERG TITANIC>(遭難した。こちらタイタニック 救助を頼む 位置北
緯41.46西経50.14W 氷山と衝突した。タイタニック) 
 
 人口衛星や通信手段の飛躍的な発達のお陰で船舶におけるモールス信号の役割は終わった。
 タイタニックの沈没位置は、世界距離経路表に<Ture position of the Titanic>として
示している。これは<CQD>発信位置から東南東方向に13.5海里である。
 遭難信号としては、その後、無線電話の普及に伴って、肉声で発信される<Mayday>(メ
ーデー)も採用された。 
 これはフランス語のm’aidez(私を助けよ!)に由来するが、ただし綴りはフラン
ス語の<m'aidez>ではなく、発音が似ていてより覚えやすい<Mayday>と表記されたもの
で、国際労働者の日である5月1日のメーデーには関係がない。



× この画面を閉じる

COPYRIGHT 2005 OFFICE S.K MARITIME ONE ALL RIGHT RESERVED