コラム157 セーラー服

コラム157 セーラー服

 ポパイ映画(アニメーション、ハースト新聞社のキング・フィーチャーズ・シンジケート
により著作権が管理、運用されている。)のテーマソングに「Popeye the sailorman]とい
う一節がある。
 ポパイはセーラー服姿でいつも口にパイプを銜えている、ひしゃげた顔の小男で、両腕に
は錨の形の入れ墨をしており、缶詰のホウレン草を食べると不死身になる。
 Sailorは水夫、水兵、甲板員、航海者、海員、海軍軍人の意と解するのが普通だ
が、元々は、「船乗り」という意味である。
 英語のSaiorと同義語には、<Seaman>、<Mariner>、<Shipman>があるが
「Popeye the sailorman」というのは、慣用語というより、戯言<ざれごと>、俗語だが、
<Sailorman>は辞書にはちゃんと出ている。(注1)
 普段あまり使われない言い方だが、神戸商船大学名誉教授の杉浦昭典先生にお訊ねした
ところ、英語圏の港町の飲み屋で「船乗りさん。」というようなときの言葉であるということだ。
 Sailerと書けば帆船であるが水夫の意もある。
 <Sailor>は熟練船員<Able seamen>、普通船員<Ordinary seamen>、見習船員<Boys>
に大別され、<Able seamen>は<Able bodies seamen>とも呼ばれ、特に老練な者は<Old 
salt>で塩気たっぷりな船員という意味であって畏敬を込めた愛称である。<Boys>は<Green 
hands>とも呼ばれ、未熟な船員、青二才の意がある。

 セーラーといえば、セーラー服を連想するが、これをイギリス海軍が正式に制定し水兵服
となったのは1857年(安政4年)のことで、ヨーロッパを中心に流行し、世界の海軍が
採用し、現在に至っているものである。
 それまでのイギリス海軍の水兵達のスタイルは様々であった。図1は1808年のエッチ
ングで、帆船の舷側で測深している投鉛手<Leadsman>を描いたものである。
 彼の青いジャケットには、多くの小さいボタンと、なでぎりされた船員の袖口が見える。
被っているのは麦わら帽で、ストライプのシャツ、ネッカチーフ姿は、当時の典型的なスタ
イルであったようである。

 現在定着しているセーラー服のデザインの嚆矢<こうし>は、1846年に、当時5歳の
大英帝国皇太子であったエドワード7世が着た服である。エドワード7世はイギリス王室で
もっとも長く皇太子の地位にあった人物で、バッキンガム宮殿でヴィクトリア女王とアルバー
ト公の第二子かつ長男として生まれ、アルバート・エドワード<Albert Edward, Prince of
 Wales>として1842年1月25日にウィンザー城聖ジョージ礼拝堂で洗礼を受けた。
 生涯、バーティー<Bertie> というあだな名で呼ばれていた王子は、1846年9月2日、
図2のような仕立てたばかりの真新しい服装で母ビクトリア女王所有の王室ヨットに乗組み、
乗船者たちの前に姿を現したのである。
 バーティーに拝謁した人々は白い服とネッカチーフがよく似合う幼い王子に喝采を送った
という。これがセーラー服の原型になったのである。
 この絵は1846年「Winter Halter」(ウィンターハルター)の描いたもので、題名は
「Albert Edward, Prince of Wales」である。
 イギリス海軍幼年学校はこのデザインを制服に採用し、その後海軍好きのイギリスの人々は
子供にこれを着せるようになり、この流行は19世紀末から20世紀初頭にかけて世界的な
ものとなった。各国の海軍もイギリスにならってセーラー服を水兵の服として採用し、大日本
帝国海軍も1872年(明治5年)に水火夫の制服として採用している。
 セーラー服は19世紀のヨーロッパ各国やアメリカでも女性のファッションとして流行した。
 図3はイギリス海軍がセーラー服を正式採用した3年後(1860年)の<A Boy Seaman>
の服装で、ポケットはなく、ハンカチを腰のベルト<waistband>に挟んでおり、上着(フロック)
はズボンに押し込まれた状態ですり減った広いゆるい衣類である。

 セーラー服独特の特長は、なんといっても大きな襟であろう。これを日本ではジョンベラ
と呼ぶことがあり、由来は <John Bull、イギリス人の意がある。> からであるというが
異説もあって、ジャンパー<Jumper>が訛ったものだともいう。語源に定説なしだろう。
 甲板(「こうはん」と読む。「かんぱん」という言い方はスラングである。)上では風
や波の音などの影響で声が聞き取り難くなるので、襟を立て集音効果を得るためであるとか、
 長髪を後ろで括ってポマードで塗り固めていたため、なかなか洗濯が出来ない船乗りにと
っては後ろ襟や背中がすぐに脂やフケで汚れてしまうので、これを防ぐため、大きな襟を付けた
のだともいう。 理屈として通用はするが、最初からそのつもりでデザインしたものでないこと
はバーティー(エドワード王子)を引き合いに出さずとも明らかで、後のこじ付けだろう。
 セーラー服の胸元が大きく開いて逆三角形になっていることで、海に落ちた時にすぐ服が脱げ、
泳ぎやすいといわれている。
 装飾として、胸元にネクタイ(蝶結び)がある。色は水色、藍色、赤、緑、黄色などとバ
ラエティに富んでおり、水兵が手ぬぐい代わりに使う。
 
 英国海軍のセーラー服の色は、暗い紫みの青(濃紺色 )で、日本の色名で言えば「藍色/
あいいろ」である。コンピュータで色付けするなら、RGBでR32,G47,B85とすれ
ばいい。
 この色はビクトリア朝時代(1837〜1901年)イギリスの植民地であったインドから得た
「インド藍」で、魅力的な貴重な染料であった。
 この「インド藍」で染めた濃紺色は海の色を想わせるもので、これをインデコ・ブルー<indigo
 blue>というが、これが英国海軍の制服の色として採用され、ネービー・ブルー<Navy Blue>と
呼ばれるようになったのだ。

 セーラー服のズボンの形は裾がベル(鐘)状に広がっている俗にいうラッパズボン<Bell-bottom
>が主流の時代があった。これは、甲板を洗う(砂摺り)とき、ズボンが濡れないように裾を何
度も折り返して上げるのが容易であるということでラッパズボンとなったというが、原型といわれ
る図2のバーティーのズボンのデザインは裾広がりで、どちらといえばラッパ型だ。
 裾を折りあげるとき、イギリス海軍では「七つの海」にちなんで7回折り上げるのだという話
がある。
 また、ラッパズボンは落水したとき、脱ぎ易いためであるからだともいう。理屈としてはそ
のとおりだが、最初からこれを意図してラッパにしたものではなく、デザインで、これらもまた後
のこじつけ話に違いない。
 図4は昭和初期、帝国海軍時代の水兵のセーラー服姿で現在と大差はないが、履いている靴は
、紐ではなくボタンを使用したもので、これも脱ぎ易いためだという。
 現在では、裾広がりのラッパズボンは回転する機器類に巻き込まれるおそれがあるとか、甲板の
突起物に引っかかるということで災害防止上の見地からラッパズボンは廃れ、今は普通のストレート
なズボンになっている。
 図5はヨットが大好きで、家族ぐるみで海に親しんでいる旧友、河田良孝君(現、補給艦まりも
操舵長(曹長))の若き海士時代のセーラー服姿で、ネービーブルーであるが、ズボンはラッパで
はない。

 自衛官の服装についての法的根拠は、自衛官服装規則で、海上自衛官については海上自衛官服
装細則や,同規則、細則の解釈及び運用方針についての通達を参照されたらいい。

 ところで、日本の女子学生の制服としてセーラー服が採用されたのは1921年(大正10年)であるという。
 福岡県の福岡女学院で、時の校長エリザベス・リーが、活動しやすい体操服としてセーラー服
をモデルにしようとして大正6年に太田洋品店の太田豊吉に発注した。
 太田洋品店では、運動ができるよう動きやすいようなデザインするため上着だけでも3年間試
行錯誤して大正9年にようやく上着が出来上がり、スカートにプリーツをつけたセーラー服上下
が翌10年に完成した。
 福岡女学院では、これが運動着として使用され、同年には愛知県の女子学園でも採用されてい
る。セーラー服が全国に広まったのは男子学生が陸軍の軍服に影響された折襟の黒色服を採用し
ていたためこれに対抗して「女子には海軍の服を」ということで普及したのだという。

(注1)古い辞書では、例えば海軍兵学校教官であった内藤信夫氏著「英和海語辞典
<A NEW DICTIONARY OF NAUTICAL TERMS>大正7年(1918年)」参照
(注2)エドワード王子のセーラ服姿の 絵は
http://homepage3.nifty.com/mtera/sailer/index.htmlから借用させてもらった。
 Franz Xaver Winterhalter Galleries蔵


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