コラム152 続 久松五勇士

コラム152 続 久松五勇士
  明治38年5月27日(土曜日、西暦1905年)、
この日はロシヤの艦隊を対馬東水道で邀撃<ようげき>し、これを撃滅した日本海海戦第一
会戦の日である。この日を記念して5月27日は大東亜戦争終結まで海軍記念日であった。

 同日早朝、五島白瀬の西方で哨戒中の仮装巡洋艦信濃丸(1900年イギリス建造日本郵
船所有、貨客船)は、檣上見張所の海軍一等水兵新海春吉(神戸商船大学名誉教授杉浦昭典
先生の叔父)が双眼望遠鏡で艦隊に随伴していた病院船アリヨールの灯火を初認し、午前4
時45分艦長成川大佐から「敵艦らしき煤煙見ゆ」の第一報告が同船搭載の36式無線電信
機によって打電されている。
 しかし、バルッチック艦隊を日本近海で最初に認めたのは信濃丸ではなかった。
 沖縄の栗国島(あぐに)出身で奥濱牛という29歳の青年がいた。
 彼は那覇に住み山原船(やんばる)に雑貨を積んで宮古島へ売りに行く仕事をしていた。
 帆を揚げて宮古島に向かっていた彼は日本海海戦に先立つこと4日、明治38年5月23
日午前10時頃、宮古島と那覇のほぼ中央洋上で、遥か前方の霧のなかに、なにやら影を見
た。宮古島の島影のように思えた。だが、その島影が動いていたので、彼は船だと思った。
 だが、だだのフネではなく北東へ進む四十余隻の軍艦で、すぐにバルッチック艦隊と分か
り25日午前6時宮古島漲水港(現在の宮古島市平良港内)に到着して直ちに島庁にこれを
報告したのである。
 島内では島民が協議の結果、敵艦来襲を当局に報ずることになったが、当時の宮古島には通
信機関がなく,海底電線のある八重山諸島の石垣島まで行かねばならなかった。しかし、遠距
離で、天候は険悪であって、航行手段は刳船(くり)のサバニしかなかった。
 だが、呼びかけに答えた勇敢な5人の青年がいた。
 宮古島久松漁港の漁民、垣花 善及び与那覇 松ほか5人で、彼らはバルッチック艦隊の来
航を大本営に急報しようとして、67海里西方の石垣島に向かって操漕し5月27日海戦当日
の早暁、八重山通信局から「敵艦見ゆ」を打電し大本営海軍部には午前6時40分着信したの
である。
 しかし、彼らの急報は信濃丸に僅かに及ばなかった。
 このため彼らの勇壮果敢な決死の渡航は昭和9年5月18日の「大阪毎日新聞」が報道する
まで、世に知られることはなかった。
「これは国家の機密であるから、だれにも口外してはならぬ。」と念を押されたからである。

 後に彼らは久松漁港にちなんで久松五勇士と呼ばれて顕彰された。
 私は数年前に宮古島を訪れた。写真はそのときのものである。
 久松五勇士の顕彰碑は久松漁港を見下ろす小高い丘に5本の支柱で支えられたサバニと共に
建立されており、その背面に刻まれた碑文には「・・・ロシヤのバルチック艦隊が宮古島西北洋上を通過した
ことを大本営に急報すべき重大な任務をおび、はかり知れぬ海上不安にとざされた波浪高き太
平洋上を刳舟に運命を託して乗り切り5月27日早暁八重山通信局より敵艦見ゆの打電をなさ
しめ、その大任を果たした。・・・」と5人の名とともに刻まれている。
 将に「滅私奉公」の赤誠の躍動といえよう。

 この項はコラム12を書き改めたもので、「ああ日本海軍 上巻 実松譲著}を参照した。
 同書には4人の漁民とあるが5人の誤りであろう。



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