コラム132 捨錨<事故調査の手法>

 筆者の業務は海難事故の調査、海難審判での補佐である。調査の対象はほとんどが衝
突であるが、被害の大きな乗揚げ事故なども手がける。内容は事故に至る事実の経過を
特定し、海難審判先例裁決から類似海難事例を検索して示す。必要があれば類似海難
再発防止の提言を行なうこともある。
 このような海事補佐人の業務に興味のある方もおられよう。
 ここではでは、業務の一例として、海難報告にままある事例の捨錨<しゃびょう>が、果
たして事故防止のために必要であったかどうかについて調査する手法をお話しすることに
しよう。
 
捨錨の定義
 捨錨(しゃびょう、Slipping anchor)は海事用語である。 古い辞書ではSliping cableとも
称し「緊急出航の為錨鎖を滑脱すること。」と定義されている。「捨錨する」の場合は、to
 slip a cableと使い、戦時に錨泊中の艦船が緊急出動する、例えば泊地で錨泊中、敵の
航空機が来襲し空爆を避けようとして急ぎ捨錨して回避の操船を行う際に、しばしば行わ
れたし、揚錨不能の際にも行う非常手段である。 揚錨不能とは、揚錨機(windlass)が故
障して揚錨不能のとき、航行中、深海で誤って錨が走出して揚錨不能になったとき、洋上
で機関が停止してしまい、このままでは風潮に圧流されて、乗揚げ必至となったとき後刻、
揚錨できない深さであっても投錨せざるを得ないが、機関が復旧して後に捨錨するばあい、
外力が揚錨機の能力を超える場合も揚錨不能であるから、場合によっては捨錨しなければ
ならないことも生じるなどが代表的な捨錨の理由である。
 衝突の結果両船の錨鎖が絡み合って、結果として捨錨となった事例もある。
 通常、捨錨の際は、鉄棒とハンマーを使用して次図に示す、Joining shackleのPinを抜く。
こうすると、common ringを切断しなくてよい。

重要事項1、このようにJoining shackleのPinを抜いて捨錨せず、commn ringを切断して
捨錨したばあいは、その理由。
 深海投錨して揚錨不能である場合は、錨鎖庫<Chain locker>内のSlip ringをはずせ
ばいい。入渠時錨鎖点検のため全量を船渠床に並べる場合も同様である。
 次に捨錨に際しては後刻(日)錨鎖を回収することを考え、また他船の錨泊の邪魔にな
るから、滑脱する錨鎖にアンカーブイを取り付けておくのが通常の船員の常識である。

重要事項2、捨錨時、アンカーブイを取付けなかったなら。その理由。
このような質問に対して、時間がなかったと抗弁するかもしれないが、捨錨は複数の乗組
員の共同作業であり、捨錨作業と同時並行的にブイやブイラインを錨鎖に結ぶことができ
ないはずはなかろう。アンカーブイを取り付けなかったなら、初めからその気がなかったも
のと解することもできる。

以降、風潮によって走錨し、他船との衝突や接触の虞があったので、捨錨したとの報告内
容の信憑性に絞って述べよう。

2、走錨
 これも、勿論海事用語である。走錨するとは、The anchor drag(comes home)で,荒天時
の碇泊当直は、接近する他の船舶が衝突針路で接近してはいないかの他、走錨を検知
するのが主たる目的である。
 走錨は、投錨した錨及び錨鎖の把駐力の合計よりも、船に作用する外力の方勝る場合
に起きる。走錨が起きる状況にあったかどうかを調べるため必要なデータ
1、単錨泊、2錨泊、双錨泊、2錨を使用し1錨は振止めに使用のいずれか。
2、単錨泊ならどちらの錨をなん節延出したか。
3、単錨泊以外であれば、各舷それぞれ何節延出したか。
4、錨地の海図上の水深(走錨当時の潮候は別途考慮する。)
5、当時の吃水(船首船尾)
6、正面及び側面風圧面積
7、潮流の流向と速度
8、波高
9、走錨時の風向風速と観測方法
10、海底の地質(底質という。)
11、錨、錨鎖の空中重量
 外力は、本稿末尾の(注2)で計算する。
 
重要事項3、計算の結果、走錨の可能性がなければ、捨錨の理由がない。

 (注2)の計算は、手計算では面倒なので、事情聴取後に計算したのでは、結果によっ
ては再度事情聴取の必要が生じる場合がある。このためコンピュータを用いてリアルタイ
ムに計算する必要がある。このためのソフトは業務の必需品でもある。

非常にラフな検討であるが、次式は電卓レベルで結果を求めることができる。
この結果から、当時妥当な錨鎖の延出量であったか否かを知ることができる。
通常の錨泊時の錨鎖の延出量  3D+90(m)・・・・・・・・・・・・・・・・(7)
荒天時  4D+145(m)・・・・・・・・・・・・・・・(8) ここで、Dは水深(m)である。
例:水深15メートルである。必要な錨鎖の延出量如何     解:7節

(注1)(8)式の結果を27.5で除すと必要な延出錨鎖の節(shackle)になる。1節が27.5
という半端な数値であるのは、元々1節は15尋という割り切れる数で、これがメートルなら
ほぼ27.5メートルに相当するからである。以上で、走錨した可能性が検討できる。

重要事項4、走錨したことが合理的に説明可能であれば、なぜ錨鎖を全量繰り出すなど
して走錨を防止しなかったかを尋ねる。
 この質問に対して、納得のゆく回答が得られるかどうか。錨鎖を延出する方が捨錨より簡
単であるが、走錨を始めると錨鎖を延出しても走錨が止まらないこともある。

重要事項5、また、走錨を察知したのであれば、なぜ機関を使用するなど走錨防止策を講
じなかったかを尋ねる。停泊中でも、その気になれば1分以内に機関を始動することができ
る。言換えれば走錨を容易に防止でき、錨を入れた状態のまま安全な水域に移動すること
ができる場合がある。必要があれば安全な水域で揚錨し、錨を打ちかえれればいい。揚錨
は1節の巻上げに1.5乃至3分を要するが、機関を始動して走錨を食い止めるには、僅か
1節巻き上げに要する時間より短時間で可能であるのに、何故それをしなかったかを聞くこ
とも重要である。ただし、機関の使用は慎重に行う必要があり、具体的には(錨泊の常識)
が業務の前提知識である。
走錨防止策としては、次のような措置が考えられる。
イ、 バラスと注水
ロ、 主機関準備
ハ、 増錨(単錨泊なら双錨泊乃至2錨泊とする。)
ニ、 錨鎖延出
ホ、 舵使用
ヘ、 スラスター使用
ト、 転錨
チ、 湾外避難
リ、 関連事項として他船にVHFで注意を喚起する。
ヌ、 船橋当直者増員

次に、捨錨の方法について検討するが、その前に、

重要事項6、周囲の状況を聴取する。
 ここでは、自船が走錨して衝突の虞<おそれ>が生じたという相手船を中心に説明
を求める。相手船の船名、満載か、空船か、相手船の姿勢(船首方向)、相手船までの
距離を聞く。
 当時の風向、風速など気象海象の状況も聴取しておく。また、当時レーダーを使用し
て周囲の船舶の同姓を探知していたかどうかについても聴取しなければならない。
 このレーダー使用の有無は質問の冒頭に行った方がいい。レーダーを使用してとい
うのであれば、後で質問する相手船までの距離が分った筈で、後刻、相手船との距離に
ついて質問し、返答が「分らない。」であったとすれば、「レーダーを使用していたのに、
何故分らないのか」と問い返すことができる。
 相手船が本船の船首方向に対してどのような姿勢であったか。風に立って(向かって)
いたかどうか。勿論相手船の船名も聴取する。船名が分れば後刻、その船に錨鎖の延出
量を尋ねることもでき、本船が満船で相手船が同程度の大きさの空船であったのに、本船
が走錨したのに相手船は走錨しなかったとなれば、本船が走錨したというのは疑わしいこ
とがあり得る。
 また、危険(接近)な船が存在していたといっても、それが風下や、走錨方向に存在して
いたことにならなければ、乗組員の説明は措信し難いことになろう。
 相手船までの距離は、走錨時間と捨錨に要した時間との整合性の検討に必要である。
時に乗組員が、相手船の船名不詳、同距離不詳というかも知れないが、夜間であっても
自船が走錨衝突相手船に接近するのであれば、サーチライトで相手船を照射するし、そ
の距離もレーダーで測定できる。それらも行わず、単に接近して危険を感じたというので
あれは、相手船を注視せずして、なぜ危険を感じたかを質問してみることである。このよう
な質問は、極めて当然の質問で、通常の船員なら誰でも疑問を持つものである。

重要事項7、 走錨速度について尋ねる。
これは前示の他船までの距離との関係で重要である。分らないとの答えで、数値表現で
きなければ、自船の船丈と比べてどのくらいであったか聞いてみる。 大雑把な距離すら
分らないのに走錨したとか危険であったということ自体、不可解な話である。
 走錨は通常の荒天錨泊(前示の荒天時の錨鎖延出量)で一般に20メートル毎秒を超
える頃から始まるようである。走錨速度について定量的な数値を示した文献が見当たらな
いので、過去の裁決のうち、走錨が始まってから衝突まで機関を使用しなかった事例を検
索し解析すると、
事例1、平成3年仙審第74号事件(船舶間衝突)
風力7、10分間で約800メートル走錨、走錨平均速力は2.7ノット
事例2、昭和58年仙審第497号(船舶間衝突)
風力8、15分間で約1000メートル走錨、平均走錨速力2.2ノット
事例3、昭和59年仙審第27号(船舶間衝突)
風力7、5分間で300メートル走錨、平均走錨速力約2ノット
事例4、昭和25年第二審第23号(船舶間衝突)
暴風、2分間で約200メートル走錨、平均走錨速力は3.3ノット
事例5、昭和53年横審第248号(船舶間衝突)
風力7、5分間で約500メートル走錨、平均走錨速力3.3ノット
事例6、昭和26年函審第27号(船舶間衝突)
風力6、5分間で300メートル走錨、平均走錨速力2ノット
事例7、平成5年広審第102号(船舶衝突)
風力7、平均走錨速力1.2ノット(裁決で走錨速力を明示した事例)
事例8、平成8年広審第43号(船舶間衝突)
風力10、5分間で500メートル走錨、平均走錨速力3.3ノット
事例9、平成3年横審第49号(船舶間衝突)
風力6、5分間で約300メートル走錨、平均走錨速力2ノット
事例10、平成7年横審第70号(船舶間衝突)
風力6、7分間で約325メートル走錨。平均走錨速力1.6ノット
 事例11、平成10年横審第21号(船舶間衝突)
風力8、11分間で約560メートル走錨、平均走錨速力1.7ノット
 事例12、平成10年神審第119号(船舶間衝突)
 風力9、15分間で約925メートル走錨。平均走錨速力2.1ノット
 事例13、平成8年広審第43号(桟橋衝突事件)
 風力10、5分間で約500メートル走錨、平均走錨速力3.3ノット
事例14、平成7年広審第71号(乗揚事件)
 風力8、平均走錨速力2.7ノット(裁決で走錨速力を明示した事例)
事例15、平成16年に富山湾で防波堤に衝突した海王丸の走錨速力は0.2〜0.3
ノットであった。
 以上の例では、平均走錨速力は海王丸の例を除き1.5から3.3ノットの範囲で、他
の事例も略この範囲に治まるものと考えていい。走錨前の相手船までの距離が分れば、
上記の平均的な走錨速力で衝突時刻(時間)を予測することができる。

捨錨の手段
前示のとおり、走錨して機関が使用できなければ捨錨を行うことになるが、その手段とし
て、大別すると、
1、錨鎖のJoining shackleのPinを抜き、捨錨する方法
2、Commn ringを溶接機でガス切断する方法
3、Commn ringをグラインダーで切断する方法
4、錨鎖庫内のSlip ringを外す方法(特殊な状況)
以上に大別される。
 ここで、問題は2、及び3の手法であろう。2の手段であるガスによる溶断では溶接機やガ
スボンベが錨鎖の付近にまで運ばれなければならない。準備完了の時点から切断完了ま
でに要する時間は直径約20ミリメートルの小型鋼船の錨鎖では約2分であることが分って
いる。 3の手段であるグラインダーを使用したなら、前示同様の大きさの錨鎖の切断に約
25から30分を要することも分っている。 この場合、

重要点8、溶接機、ガスボンベを使用したなら、それはどこに設置されていたもので、誰が
どのように錨鎖付近まで運んだのか。小型鋼船では通常ガスボンベは船尾楼やボートデ
ッキに格納されているのが通例である。そうすると、これを船首楼に運搬するに要する時間
は、少なくとも5ないし10分を要するだろう。そうだとするなら、前示走錨速力と相手船まで
の距離との関係から、錨鎖溶断に要する時間との整合性が問題になる。
 例えば、溶接関係機材を船首楼まで運搬するのに10分を要し、切断完了までの合計時
間が15分であったとする。 相手船まで500メートル、走錨速力が2ノットであったなら、相
手船と衝突するまで、500秒(約8.3分)であるから、ガスによる溶断は矛盾することにな
る。(それまでに衝突する。)
 通常ガスボンベは固縛されている。これを解く時間、狭い上甲板の狭い通路を重いボン
ベを運ぶに要する時間、それも荒天下で運搬しなければならないことを考慮して事実を
特定<認定>する必要がある。
 長時間を要するグラインダーによる切断は論外で、実際に走錨が始まってから切断作業
を開始したものなら、必ずや錨鎖切断までに衝突してしまう。仮に、そのような長い時間を
かけて走錨したことがあったとしても、その場合、走錨速度は極僅かであろうし、錨鎖を切
断するまでもなく、その間に有効な走錨防止策、例えば転錨、増し錨、機関使用などの対
策を講じることができる。

 このように、捨錨の報告がなされたときは、以上のような綿密な調査を行なうことがある。
 グラインダーによる捨錨は論外であるが、ガスによる錨鎖の溶断の場合であれば、前示
の各事実を認定することで、捨錨が真にやむを得なかったか否かを特定することができる
のである。
 余程のことがない限り、前示重要事項3(走錨の可能性の問題)で決着が付くだろう。
海難報告書に、当時は強風下で、捨錨せざるを得なかったとの記載があったとしても、そ
れが真実でなければ、乗組員らの説明には整合性がなく、必ずや矛盾が生じ各主張は
相互に矛盾するものである。なお、捨錨の裁決例では、いずれも他船との衝突の結果捨
錨したもので、衝突防止のため捨錨したとして審判が行われた事例は見当たらない。

 海事補佐人とは職業的補佐人で、こんな仕事もしているのです。


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